誰かが僕らに嘘をついてもそれもお揃いの嘘だからちゃんとお揃いで騙されていようね


生命、狂人、正気の順だった。生命の大きな流れの柔らかい部分、首筋に添えられる詩人の眼差しの切っ先、当たり前の丸さを当たり前に肯定する深さの恐怖。
このひとたちの音楽のなかにうずくまって生きてきた。あらゆるときに聴いていたけれど特定の強いエピソードを結ばないようにしてきた、ふと覗くと本当のことを歌うひとたち。それは特定の誰かとの話じゃなくて、わたしと生命とか詩人と眼差しとかそういう大きなものの話だから。もっと聴かせて、ちめいてきなしゅんかんを。

わたしはぶっ壊れたサウンドホールみたいなもので何もかもが不正確なのだけれど、それでも偽りなく伝えたいと思う。歪な響きに変質してしまっていたとしても。

 

天使に会ったよ。住宅街にいて朝からロング缶を持っていたから声を掛けたのだけれど、わたしの身分を詳かにしようと思い「てんしいぬ人です」と名乗ったら聞き返された。いや、だから、てんしいぬ人、ですが?

17のときだったと思う、夏にひとりで京都に来た。正確にはインターネットで知り合った大学生の友人を頼り、彼女の家に2-3泊した。そのときに我が物顔をして馴染みのない街をひとり歩く心地よさを覚えたのかもしれない。昼間はひとりだったからとにかく歩いた。ろくな地図も持たずにどうやったのか記憶にないが、きっと偶然まぐれだろう、清水のあたりから祇園四条に歩いた。わからなくなったら来た道を戻ろうと直進していたのだろう。いまたぶんね、その道に近しいところを直進している。そのとき撮った何枚かの写真は今でも気に入っているけれど、そのアスファルトは濡れて見える。そして今日もアスファルトは濡れていて、何歳のわたしがここにいるのかよくわからなくなった。わたしにも年齢があるのだ、あるはずなんだけれど。彼女の家でホットケーキを焼いたことだけ覚えている。

 

 

ほんの少しの大切なひとのささやかな暮らしを守り抜いて欲しい、その代わりに総てぶっ壊れてしまえ。わたしが思わずそう願ってしまったように別の誰かも同じように願ったのだろうか。ああそうか、わたしの素行が悪かったせいか。

眠りの時間がみんなに平等に穏やかでありますように。できれば呪詛より嘆きより優しい言葉を唇に寄せたい。どんな言葉でも構わないけれど、トゲの抜けない心や痛みに堪えない心がひとつでも癒えたらいいと思う。わたしはいなくならない。「生きたことに意味があるならもうこれ以上の付加はいらないから、充分やったから、終わりにしたい」といったその舌の根も乾かぬうちに簡単にこんなことを言う。でもわかるから、わたしはここにいることが。

 

 

(最前列のド真ん中、本当にありがとうございました)