生命線を揺さぶって

 

「生命線を」だと思っていたら「照れさえも」だった。

 

 

 

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▼210207(sun.)

マシーン日記を観にシアターコクーンへ。かつて阿部サダヲが演じた役を横山裕が、そもそも片桐はいりへの宛書きである役を秋山菜津子がどう演じるのかにとても興味があった。

センターステージ構造のお芝居を見るのは初めてだったけれど、360°どこも観客がいるというのはどれだけ大変だろう。加えて、休憩時間以外に横山裕の出捌けは一度もなかった。自分にスポットが当たらない間も円形に取り巻く視線の中央に居続ける体力に感服したし、あとはショートカットのツーブロックで登場した秋山菜津子の佇まいがクレイジーを助長していて最高に良かった。紫のライダース風の作業服。
聞いたことのないセックスの体位の名前がたくさん並んでいて、あーあの舞台のセッティングは回転ベッドのような意匠もあったのだろうかといま書いていて思った。

 

見終わったあとは渋谷を登って原宿側へ抜けた。揚げパンを何年か振りに食べて、代々木公園に入る。あんまり天気が良くないと思いながら園内を歩き進めて行くと、池沿いにベンチがあったので腰掛けてふと目線を上にやる。低いところに分厚い雲が掛かっている隙間では夕焼けらしい重たっるいオレンジが燃えていて、池には葉のない樹々が映りこんでいる。あと数分もしないうちに辺りはもっと暗くなるのだろうとわかった。

このまま全部が閉じてしまいそうな、でも不思議と閉塞感は感じなくて、その感覚が心地よかった。本当は毎日をこんな塩梅の空模様に揺さぶられたりして過ごしたい。思わずカメラアプリを立ち上げたけれどろくな写真は取れずじまいで、そうこうしているうちに細い雨の気配が手の甲に落ちたので帰った。

 

 

 

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2021年2月8日。5年だってさ。

もうわたしには何もわからなくなってしまった、時間の経過というのは本当に堪える。丁寧に見失うために生きのびているのだとしたら本当に嫌なことだ。何度も何度も壊れている、自分も他人も気づかないうちに。それでも指摘するひとは、つまり君はいないし、いたところで指摘したかは定かではない。5年だってさ、自分には変化があっただろうか。極めて不明瞭だ、まだ生き残っていることは確かに言えそうで、わたしもさっさと置いていく側になれたらいいのにな。

 

 

「君が自分を置いていくのは想像できる、自分が君を置いていく想像はできない」と言われたことが幾度かあって、それを言ったひとにはもれなく置いていかれている。いい加減慣れろよって思うんだけれど、これがどうしてなかなか慣れない。次こそはと思ったところでまんまとほだされるし、膝を抱えることになる。置いていかないでくれと頼んでも、並走したり休息したりしても、そうやって増えた痛みを上手く代謝できないまま身体に積もらせて、いよいよ動けなくなってしまった。


あのドアの内側で、を幾度も想像して背筋を凍らせている。あのドアの内側にいつもわたしはいなくて、駆けつけても遅くて、頼んでも入れてもらえなくて、意味がわからないから理解を放棄しても目から水はバタバタ垂れるから、きっと感情は正常に動いて膨大に生じていて、生じたからにはどうにか処理しなくちゃって思っても途方に暮れてしまう。
誰かそばにいてくれよ、と思うのだ。最近はずっと夢見が悪い、悪夢を見るというわけではないのだがやけに疲れてしまう。

 

信じるに値しないものは口約束だ。あれをしようとかこれをしようとか、ずっととか必ずとか、それはハッピーエンドの布石じゃない。でもバッドエンドへのフラグでもない。「そして最後にKissで締めるのさ」という歌詞が頭をちらつくから、それくらいの救いは欲しいから、つまりこの世の総てはハッピーエンドへの布石なのさ!って宜しくやっていくしかないよね。

話が逸れたけど口約束は叶えられると思ってはいけない、でも自分は「叶えたい」と思う。与えられるのを待つのは嫌だ、わたしは惜しみなくありたいと思うよ、せめて大切にしたいひとくらいには。だって口約束って覚えてもらっているだけでも嬉しいのに、それが叶うときなんて、それはそれはとても嬉しいじゃないか。だからわたしは叶えたい、「叶えて欲しい」という向きの矢印にならないのは不健全な気がしないでもないけれど。


ねえ、君はどうしてそんなところで臆病なんだろう。わたくしの力不足なのでしょうか、それとも求めることにも疲れてしまったの、生きることは摩耗することに他ならないって考えには納得しちゃうんだけど心躍らないじゃんか。
軽口を叩いていたいよね、もしもそこにまだ感情があるのなら。