紺色天狗の眼球は素数個

 

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夏にはどうしたって気が狂うからようやく平素でいられる。汗ばむ身体ひとつわたしにはどうにもできない。生命の中央にいるなあと思う、今年はまだ入道雲を見ていない。「きゃみなり」とメッセージが届いたとき、わたしは地下で冷たい麺を啜っていた。

 

 

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久々に、特に思春期の時分によく聴いた歌たちをまとまった単位で聴いた。「惨めじゃない日はありません」と歌う声がやっばりとても好きでキュッとなる。惨めじゃない日をくれますか。

 


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目を覚ましたら午前4時前で、まだ暗くて、毛布に抱かれ直して眠ろうにも頭が落ちないからちまちまと平仮名を繋ぎ合わせる遊びをしていたらみるみるうちに明るくなってきて3時間が経過。音楽をかけることも怠惰して、夏の朝を聴いていた。部屋に満ちる空気には夏が吸着していて、ひとりでも全然へっちゃらで生きていけることが浮き彫りになってしまって、自分は不完全な個体なんだろうなと思い、手遊びにも飽きたし少し眠った。

 


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それが8月最初のほうの朝で……などと怠惰にも続きを書き連ねようとした今日、そういえば今朝も目を覚ましたら4時だった。寒くて仕方がなくて、タオルケットと毛布を身体に巻き付けて、全員死ぬなら死ねと思いながら冷房を消して眠り直した。起きたら大変に暑くて、それはそう、というお話。

 


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生命に盛りがついていてうるさい日々ですが、蝉時雨って言うのはどうにもシューゲイザーと同じ性質を持っていると思う。詳しくはないがわりあい好んで聴く。シューゲイザーには夏のものと冬のものがあって、高いところから降り注ぐ光の質感や広がる吐息の質感などが関係している気がする。でももしかしたら夏のシューゲイザーという感覚そのものが蝉のために生まれたものかもしれないな、と考えながら過ごすなど。ライジングサンの放送は少しだけ見ました。

 


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羽田空港にはひとがいなかったけれど馴染みの顔はいて、大きく手を振って見送った。ゆっくり空港で遊んでいこうと思ったけれど飲食店も何も開いてなくて(吉野家が午前10時オープン!)、結局飛行機が飛び立つ姿をずっと眺めていた。屋外に出たら日光を遮るものがなくて、よく火の通ったわたしはきっと食べ頃を迎えてしまっていただろう。
一旦帰宅、タッチパネルが無関心を決め込み始めたiPhoneをパソコンに繋げても上手くいかなくて不服。
あんまりに不服なので許されるだろうと、すっかり馴染みになった海辺にゆくことになる。電車に揺られて降りて、キリンのラムネ味のサワー9%のプルタブを引いて歩き始めて、海が見える前に飲み干してしまった。狭い部屋で1時間だけ眠って坂をくだる。
海があるのだ、海が。
ずるずるのズボンが落ちないようにたくし上げた裾を抑えて膝下まで海に浸かって、そのまま昇る朝日を眺めてた。コンビニで唐揚げとサワーを買い足して、サニーデイ・サービスくるりを聴きながら、午前6時にプルタブを引いたばかり缶を傾けて数日間飲み忘れ続けていた薬をごくりと飲み干したとき、わたしは今日もきちんと生きている、と思った。わたしのかたちをしている命を所有しているわたくしがお送りしているのが、ここ、紅差し指でsavexです。

そんな風にして寝て起きたら不自然な場所にいて、想定より一瞬早く眠りに落ちたのだとわかった。安いだけが取り柄のピーチ味のチューハイはひとくち分残ってて、口をつけたらぬるくて甘くてまずくって、とても愉快な気持ちになった。おはよう、まだ夏は残っていますから。